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ケルンからこんにちは

阿部千春です。ドイツから徒然草をお届けしています。

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北欧・北ドイツの響き II

秋めいてきた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。ドイツのお天気は急激に変わることが多く、先週真夏のような気温だったのが途端に真冬の寒さ。日本も冷え込んでいるようですね。

さて1月に続き、10月末に帰国、北欧・北ドイツの音楽をお届けします。今回は相棒のリュート奏者、蓮見岳人とのコンビでのプログラムです。



北欧・北ドイツの響き II : テレマンと北ヨーロッパ


10月28日(土) 18:30 開場 19:00 開演  東京・北とぴあ ペガサスホール 

チケット(全席自由) 4000円 ペア 7000円 学生 3000円 小中高生 無料

前売り・お問い合わせ 辻有里香  電話 : 03-6411-1997 メール : yurikaviolin@kvj.biglobe.ne.jp


10月29日(日) 14:00 開演 東松山・古民家ギャラリーかぐや http://g-kaguya.com/



11月1日(水)  18:30 開場 19:00 開演  盛岡・岩手県公会堂 2階21号室 http://iwate-kokaido.jp/sanpomiti.pdf



*会場によってプログラムが多少異なります。



解説


バロック時代後期にヨーロッパ中に名声を博したゲオルク・フィリップ・テレマン (1678-1767) は、1721年、 40歳の時に北ドイツのハンザ自由都市ハンブルクでの活動を開始します。この地で1767年に没するまで、46年にわたってハンブルク市の音楽活動全てを監督する立場にいました。劇場、教会、その他の音楽会の企画、演奏、執筆そして出版業までも営むマルチタレントぶりを発揮します。


15世紀半ばにドイツ・マインツでヨハネス・グーテンベルク (1400頃-1468) が活版印刷を創始、ヴェネチアではオッタヴィアーノ・ペトルッチ (1466-1539) がその技術を楽譜印刷に用い販売を始め、出版譜がヨーロッパ中に広まります。手書きで彩色まで施されていた「美術品」としての楽譜制作から一転、一度に多数部を出版できるようになったのですが、まだ手のかかる方法をとっており、印刷譜は手書きのもの同様とても高価なものでした。王族貴族、財力のある商人たちの蒐集品だった楽譜は、16世紀終わりからより安く印刷できる方法が定着すると、大航海時代の通商で力を持ち始めた一般市民達にも手の届くものになってきます。

バロック時代、テレマンや同時代の音楽家たちはそのような一般愛好家に向けて、気軽に楽しめる、わかりやすい内容の作品集を出版するようになります。ハンブルクで1734年に出版されたテレマンの12曲のヴァイオリンまたはトラヴェルソのためのソロ曲集 は、その一つの例と言えます。


スウェーデンの音楽の父と呼ばれているヨハン・ヘルミク・ルーマン (1694-1758)は、17世紀の革命を通して市民達が社会の主導権を握るようになっていたイギリス・ロンドンに渡り、1715年ごろから6年ほど修行しました。ロンドンは当時ヨーロッパで一番大きな都市 (1700年当時、世界で最多だったのがイスタンブールで約70万人、2番目が江戸68万8千人、3番目が北京65万人、4番目にロンドンがパリを抜いて55万人、5番目はパリ53万人 : https://ja.wikipedia.org/wiki/歴史上の推定都市人口 )で、自由な商業活動を求める音楽家たちがヨーロッパ中から集まっていました。そのような状況の中、例えばゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル (1685-1759) は1712年ロンドンに移住し、オペラの興行を始めます。ルーマンはヘンデルのオーケストラのヴァイオリン奏者であったアッティリオ・アリオスティ (1666-1729) のもとで研鑽を積みました。ロンドンでは市民上層階級の間で本場イタリアの音楽家について楽器を習うことが流行っており、イタリア人ヴァイオリニストが多く活動、彼らはまた音楽教師としてエキゾチックな楽器、例えばヴィオラ・ダモーレ、をも教える能力が必要とされていました。ルーマンの師、アリオスティはそのような音楽家の一人で、ヴィオラ・ダモーレの名手として名を馳せていました。


後にレオポルド・モーツァルトが自身のヴァイオリン教則本でLiebesgeige – 愛のヴァイオリン – と名付けたヴィオラ・ダモーレには、この頃2つの違うタイプの楽器が存在していました。17世紀からの古いタイプは金属弦を弓で擦るもので,

北ドイツで使用されていました。1680年代から徐々にオーストリア・南ドイツ地方に後のタイプ (ガット弦を弓で擦りその下の金属弦が共鳴するタイプ) が現れてきます。楽器制作の中心の一つであったハンブルクでは18世紀に入ってからも古いタイプの楽器が使われており、スカンジナヴィアにもこのタイプが広まっていました。ストックホルムからロンドンに修行に出ていたルーマンは、ロンドンの師匠アリオスティが使っていた共鳴弦付きの新しいヴィオラ・ダモーレも知っていたと思われます。師アリオスティによるヴィオラ・ダモーレのソナタ集を書き写してストックホルムに持ち帰っており、現在残っている唯一の原典となっています。


デューベンコレクションは、1640年から1726年頃までスウェーデン宮廷楽長を代々勤めてきたデューベン家によって蒐集された楽譜コレクションで、1732年からウプサラ大学の図書館に収められています。約2300の手稿譜、150ほどの当時の印刷譜からなり、17、18世紀にヨーロッパで活躍したイタリア、フランス、ドイツ、そして地元音楽家の作品が収録されています。https://www2.musik.uu.se/duben/DubenCollectionInfo.php

この中にあるヴィオラ・ダモーレのための作曲者不明の組曲には「Mr.Grove」という名前が表紙に記されていますが、この人物が何者なのかは解明されていません。この曲の調弦にはハンブルクで使われていたハ短調の調弦が指定されており、金属弦を弓で擦る古いタイプの楽器を想定したものと推定されます。一方でルーマンの歌曲もコレクションには収められており、ルーマンとの関連を考慮すると、新しい共鳴弦つきタイプでの演奏も想定されます。バロック時代、ヴィオラ・ダモーレの調弦は決まっておらず、曲の調性に合わせた調弦法、スコルダトゥーラの技法が使われていました。


ちなみに、共鳴弦を使った楽器はインドや中近東の伝統的な民族楽器によく見られます。スカンジナヴィアでは、ノルウェーのハーダンガーフィデル、スウェーデンのニッケルハルパにおいて例を見ることができます。ハーダンガーフィデルに共鳴弦がついたのは17世紀半ばだと言われています。これがヴィオラ・ダモーレからの影響だったのか、中近東からヨーロッパ大陸伝いで、もしくは通商を通してイギリス経由で入ってきたのか、証明されていません。現在のニッケルハルパには共鳴弦がついていますが、このタイプの楽器は1800年頃に現れ始めたと言われ、それ以前の楽器、モラハルパには共鳴弦はついていませんでした。


1721年頃ロンドンからストックホルムに帰ったルーマンは、宮廷副楽長に任命され6年後に楽長となります。1726年に出版されたフルートのための12曲のソナタ集は、1740年に試作としてのみ印刷された無伴奏ヴァイオリンのためのエッセイ (Assagio) を除くと、彼の生存中に出版された唯一の作品です。スエーデンにおける銅板印刷での楽譜出版はそれまでは教会音楽や小品が中心で、器楽曲集はこのルーマンのフルートソナタ集が初めてとなります。

1726年11月のストックホルムの新聞にソナタ集出版予告が3回掲載せれていますが、ルーマンと彼の出版元はスウェーデンでの需要の低さを予想し、ドイツでの販売拠点を探ります。1726年12月のハンブルクの新聞には、

ストックホルムでこの度「フルートトラヴェルソとヴィオローネ、チェンバロのための12のソナタ」が出版されます。この曲集はヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、オーボエ、リコーダーでの演奏にも適しており、その生き生きとした、そして優雅な曲風はスウェーデンのみでなくドイツにおいても歓迎されるでしょう。ハンブルクのゲオルク・フィリップ・テレマン氏までお問い合わせください。予約を受け付けます。一部につき4ライヒスタラーで、1727年6月に楽譜をお渡しできます。


という宣伝が掲載されました。1タラーは2〜3万円程でしょうか。

テレマンは1740年の自伝の中で、従兄弟のヴァルムホルツ氏がストックホルムで薬局を経営しており、1726年生まれの自分の息子、Benedict Conrad Eibertがそこで見習いをしていると述べています。親族を通して、またハンザ都市間の物流、人材、文化の交流を通して、ルーマンとの繋がりが成立したものと思われます。

またテレマン作曲のフルートソナタの手稿譜がストックホルムに残されており、そこにも北ドイツとスカンジナヴィアの交流が伺えます。


ルーマンは、かなりのヴァイオリンの名手だったようです。18世紀に全ヨーロッパで大ヒットしたアルカンジェロ・コレッリのヴァイオリンソナタ集作品5には、当時の音楽家による装飾を施した例が数多く残っています。その中でも一際その難しさで目を引くのが、ルーマンによる装飾です。

無伴奏ヴァイオリンのためのエッセイ集は、17世紀からの無伴奏ヴァイオリン音楽の伝統に新しさを加えた魅力的な作品集です。ドイツ語圏における、ハインリヒ・イグナーツ・フランツ・ビーバー(1644-1704) の無伴奏ヴァイオリンのためのパッサカリア、またヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750) の無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ・バルティータ6曲では、伝統的な対位法技法を用いた多声音楽をヴァイオリンで表現する試みが見られます。ルーマンにおいては、新しいギャラント風の語り口、スウェーデンの民族音楽的な要素が中心となり、同じ頃に成立したテレマンの無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア集と通じる部分があります。

テレマンは1705年からポーランド・ジャルイのプロムニッツ伯爵の元で宮廷楽長を勤めました。その頃シュレージエン (シレジア) 地方で当地の民族音楽に感銘を受け、生涯にわたってその要素を作品に取り入れます。無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア集にもその影響が色濃く盛り込まれています。


音楽を愛好する貴族や商人の間で人気のあった楽器の一つにリュートがあります。ルネサンスからバロック時代にかけて、各宮廷ではリュート奏者が奏者、教師として活躍していました。市民が経済的、政治的に力を持つようになると、リュートという楽器も市民愛好家の間でもてはやされるようになります。

ダヴィド・ケルナー (1670-1748) は、教会オルガニストであった父親から最初の音楽教育を受けたのではと言われています。フィンランドやスウェーデンでオルガニストとして、また法律家、教師、大北方戦争 (1700-1721) においては兵士として活動しました。

著書としては、1732年に出版された通奏低音教本があり、テレマンがこの教本の前書きを書いています。18世紀中に、ドイツ語のほかスウェーデン語、オランダ語でも出版され幾度か増版されました。この時代、市民愛好家たちの手引書として、このような教則本が数多く出版されています。

1747年ハンブルクで出版された「リュート小品集」は、11コースの楽器のためのタブラチュア譜での作品集です。13コースの楽器が職業音楽家に使われる中、親しみやすい音楽的内容での11コースの楽器のための曲集は、一般市民層を対象とした出版だったと見られます。


リューベック出身のトーマス·バルツァー (1631年頃-1663) は、スウェーデンのクリスティナ女王に短期間使えた後、リューベックを経て1655年にロンドンに渡ります。ドイツ・ヴァイオリン流派の重音奏法は、当時ロンドンにおいて全く新しいもので、驚きを持って迎えられます。不摂生が祟り早くに亡くなりますが、ニコラ・マテイスやヘンリー・パーセルにそのスタイルは受け継がれていきます。

「ジョン、さあ来てキスして」によるディヴィジョンは、巷の流行歌をテーマにしたヴァリエーション形式で、器楽曲で好んで使われた作曲法でした。


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