ドイツバロックの響き プログラム解説
明日、10月26日土曜日17時時からの、東京・巣鴨レソノサウンドでの演奏会プログラムの解説をこちらに載せておきます。11月1日の京都・アイガットサロン、11月2日の奈良・水輪書屋では、楽器手配の都合上、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラとニッケルハルパの紹介は割愛させていただきます。そのうち関西でもぜひこの2つの楽器を紹介できればと考えています。
解説
1600年ごろに現れたポリフォニー音楽からモノフォニー音楽への移行は、オペラという新しいジャンルを生み出し、器楽曲という分野にも大きな転換をもたらしました。新しい器楽形式の発展で大きな役割をになったのがヴァイオリンという楽器です。音域が広く旋律を演奏するのに適した5度調弦のヴァイオリンは、この楽器に特有のテクニック・語法とともに器楽音楽の発展の主役として、バロック時代を通してヨーロッパ中で使われるようになります。そのような時代、ルネサンスからのポリフォニー音楽を新しい器楽形式に取り入れ独自のスタイルを築いたのは、ドイツ語圏の名手たちでした。
彼らはまた新しい楽器にも興味津々で、17世紀半ばに出現したヴィオラ・ダモーレを好んで使ったのもこの地域です。
このプログラムでは、ルネサンスからの伝統に則ってバロック時代には音楽的、技巧的にその頂点に達した楽器、リュートを組み合わせ、1700年前後のドイツ・バロック音楽を取り上げます。
イタリアでは16世紀後半からヴァイオリン製作家たちが活躍し始めます。1600年頃に歌唱の分野で旋律中心のモノディー様式が出現し、そのスタイルを踏襲するのに適した楽器としてヴァイオリンがもてはやされるよぅになりました。ヴァイオリンという楽器のテクニックもこの時代から飛躍的に発展します。
音楽の中心といえば当時はイタリア、ヨーロッパ中の貴族王侯、教会から音楽家たちが修行のために送り込まれてきます。この音楽家たちはイタリアの最新の音楽を自国に持ち帰り、ヨーロッパ中にイタリア音楽、そしてイタリアで流行している楽器をもたらしました。その結果、ヨーロッパ各地域でイタリア形式が組み合わさった、その当地特有の音楽的発展がもたらされるようになります。
17世紀のボヘミア、オーストリア、南ドイツでは、イタリアの楽器ヴァイオリンにおいて独自の流派が発展しました (ドイツ・ヴァイオリン流派)。旋律を歌い聞かせるイタリアのヴァイオリン音楽とは対照的に、ヴァイオリン独自の語法・新しいテクニックを用い対位法までも取り入れたこの流派を代表するのが、ヨハン・ヤコブ・ヴァルター (Johann Jakob Walther、1650-1717)、ハインリヒ・イグナーツ・フランツ・ビーバー (Heinrich Ignaz Franz Biber、 1644-1704)といった音楽家たちです。
ヨハン・ヤコブ・ヴァルター (Johann Jakob Walther、1650-1717) の”カッコウの模倣” は、“ヴァイオリンのためのスケルツォ集“ (Scherzi da Violino Solo、1676) に第10曲目として収められています。ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー (Johann Heinrich Schmelzer、1623-1680) を祖とするドイツ・ヴァイオリン流派において好まれた、器楽での自然描写 (標題音楽) は、この作品においてコンセプトの中心となっています。ドイツ中部出身のヴァルターには、ポーランド、イタリア・フィレンツェでの活動記録が残っており、各地の音楽を吸収し自身の作品に応用していったその足跡が垣間見えます。最後はドイツ・マインツの宮殿で勤め1717年にそこで亡くなっています。
17世紀ドイツヴァイオリン流派の、 ハインリヒ・イグナーツ・フランツ・ビーバー、ヨハン・パウル・フォン・ヴェストホーフ (1656-1705) と並ぶ名手として、ヴァルターは後々まで名を残しました。19世紀のベルギーの音楽家・音楽批評家であるフランソワ=ジョセフ・フェティス(1784-1871) は、彼を“17世紀のパガニーニ”と位置付けています。
17、18世紀は、楽器製作においても大きな変換期でした。ヴァイオリンにおいてはシュタイナー、アマティ、ストラディヴァリといった製作一族の名器が生まれ、様々な新しい試みがなされた時期でもあります。
ヴィオラ・ダモーレという楽器が出現したのは17世紀半ばだと言われています。本体はヴィオラ・ダ・ガンバの構造をもち、脚に挟むのではなくヴァイオリンのように肩に乗せての演奏方法をとるこの楽器は、”愛のヴィオラ”と呼ばれたように倍音の多い甘い音色を特徴としています。バロック、クラシック時代を通し1800年頃まで好まれて使われた楽器ですが、音量を求められた19世紀ロマン派では影をひそめ、20世紀初頭にヒンデミットやその同僚たちが”再発見”して復活、今日に至ります。
17世紀、楽器が出現した当初は、ディスカント・ガンバのような作りのボディにガット弦ではなく金属弦(チェンバロ弦など)を用いた、共鳴弦のない構造でした。ヴィオラ・ダ・ガンバの製作で有名だった街の一つ、北ドイツのハンブルクを中心に、この初期のモデルが広まります。少し遅れて、南ドイツ地方では、金属の共鳴弦を取り付け擦奏される弦をガットにしたモデルが出現します。現在一般にヴィオラ・ダモーレと呼ばれているのはこちらのモデルです。
オーストリア、ウィーンとリンツの間にあるドナウ河畔のゲットヴァイク・ベネディクト派修道院には、重要な楽譜コレクションがあります。その中に、記譜法が特殊でどの楽器のための楽譜かわからなかった譜面集があり、ヴィオラ・ダモーレ奏者・研究家であるマリアンネ・ロネツ- クビチェック氏とその夫であるエルンスト・クビチェック氏が2015年にヴィオラ・ダモーレ曲集であるという判断のもと楽譜を出版しました。本日のプログラムの作者不詳、ヴィオラ・ダモーレのための組曲はその中の14番目に収録されています。
この曲集は一貫して17世紀後半のドイツ・ヴァイオリン流派特有のスタイルでまとめられています。各組曲の作者は不明なのですが、その中の数曲はおそらくビーバーの筆によるものであろうと言われています。17世紀後半、イタリアの音楽がヨーロッパに広まり、さらにフランス・絶対王政の宮廷音楽がその政治形態とともに各地方に浸透していきました。この曲集においても、当時新しかったフランス風組曲のスタイルが、地元の新しい楽器であったヴィオラ・ダモーレを用いて試みられています。
金属の共鳴弦がついている構造は、ヨーロッパにおいてはスカンジナビアの民族楽器にその例を見ることができます。前回2023年の演奏会で紹介したノルウェーのハーディングフェーレは、4弦のフィデルに4弦または5弦の共鳴弦を張った構造です。本日紹介するニッケルハルパはスェーデンの民族楽器で、中世にその起源があり、スカンジナビア以外にもドイツ、オーストリア、イタリアにおいて記録が残っています。ヨーロッパ大陸からスカンジナビアに広まったとされています。
ニッケルハルパは弓で弦を擦り音を出す楽器ですが、右手でタンジェント (鍵盤) を押さえることで音程を変える、いわば大正琴のような作りになっています。共鳴弦は19世紀に入ってから加えられたようで、それまではガット弦を張った全音階的・比較的簡単な構造でした。20世紀前半に半音階システムが導入され、1960年代に再認識されてスェーデン民族音楽のシンボル的存在となります。現在では民族音楽、そして他のレパートリーにおいても頻繁に使われ、2023年に音楽、楽器製作、革新的な普及といったこの楽器における全般的な活動がユネスコの無形文化財に指定されました。
ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラは、”肩掛けチェロ”と言われるようにストラップなどで肩からかけヴァイオリンの構えで演奏する小型のチェロです。チェロがソロ楽器として使われ始めたのは17世紀半ば、イタリア・ボローニャ楽派ですが、そのころのチェロは小型でヴァイオリン弾きが持ち替えてすぐに弾くことのできるものでした。弦の数、調弦も様々でしたが、次第に大型の楽器を脚で挟んで演奏するようになります。viola di spala、basetto viola、viola pomposa、violoncello piccoloという名で呼ばれることもありました。ポンポーサと呼ばれる楽器は基本的にヴィオラと同じ音高ですが、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラは現在のチェロと同じ音高、つまりヴィオラの1オクターヴ下の調弦です。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲は実はこの楽器のために書かれたのでは、という説がディミトリー・バディアロフ氏によって提唱されて以来、(バロック)ヴァイオリン奏者が演奏する機会が増えています。
本日演奏するジュゼッペ・コロンビ (Giuseppe Colombi、1635-1694) のチャコンナは、チェロの独奏用レパートリーの初期のもので、4弦または5弦の楽器のために書かれています。
チェロのパート譜にある挿絵 Giuseppe Torelli op. 4, p. 1
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach、1685-1750) の無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌは、パルティータ第2番の終曲を飾る、ヴァイオリンのレパートリーの名曲として今日でもよく演奏されるスケールの大きな作品です。自筆譜にはciacconaというイタリア語表記で記されていますが、イタリア風の快活なチャコンナとフランス風の落ち着いたシャコンヌの混合とも言えるスタイルをとっています。バスの定型 (オスティナートバス) の上に即興的バリエーションが展開される3拍子の舞曲を、バッハは無伴奏ヴァイオリン曲としてまとめ上げました。ドイツ・ヴァイオリン流派のテクニックを研究し、ヴァイオリンの可能性を最大限に使いまわした壮大なシャコンヌとなっています。1720年ごろの成立だと言われています。
この時期、バッハは最初の妻マリア・バルバラを亡くしています。ドイツの音楽学者ヘルガ・テーネ氏は、このシャコンヌには亡き妻への追悼として教会コラールが組み込まれているという説を提唱しました。
ハインリヒ・イグナーツ・フランツ・ビーバー (Heinrich Ignaz Franz Biber、1644-1704) は北ボヘミア・ヴァルテンブルク (現チェコ) に生まれ、クロムニェジーシュのカール・リヒテンシュタイン−カステルコルノ公に仕えた後、ザルツブルク大司教の宮廷楽団においてカペルマイスターとして活躍。またヴァイオリンの名手としてヨーロッパ中に知られていました。宮廷用の音楽、教会音楽と並んで、ヴァイオリンのソロ曲も当時から国境を超えて有名でした。重音奏法や細かい即興風のパッセージ、スコルダトゥーラを用いた当時のヴァイオリンテクニックの最先端をいくスタイルは、17世紀後半のドイツヴァイオリン流派のレベルの高さを示すものとなっています。
ソナタ3番 は1681年にニュルンベルクで出版された8曲のヴァイオリンソナタ集に収録されています。ザルツブルク周辺の風景を描写するような内容で、教会の鐘の音や村でのダンスの情景が続き、時計のような音型が突然終わる、変わった内容の構成になっています。 (阿部 千春)
リュート曲について
17世紀から18世紀にかけてのシレジアは、宗教戦争を背景とした困難の一方、音楽や宗教的文化が特に盛んな地方でした。現在はポーランド領です。
この地方出身のロイスナーとヴァイスは、繊細で複雑しかも大胆さもあわせ持つ作品群を残しました。
ロイスナー (Esaias Reusner、1636–1679) はフランス風の複雑な筆致を得意としましたが、持病のためかライプツィヒのトマス教会のテオルボ奏者、ライプチヒ大学での教職を一年で引退、その力量を惜しんだブランデンブルク辺境伯フリードリヒ・ウィルヘルムが彼をベルリンに招聘、「室内音楽奏者および部屋付きリュート奏者」とします。そこで出版された曲集「リュートの新しい果実」の彼自身の持っていた一冊には、余白に彼の最後の作品が肉筆で追加されています。
そこにあるのはフランス由来の華麗さと、ドイツプロテスタント圏特有の素朴なメロディーが一体となった大変美しい作品の数々です。
ヴァイス (Silvius Leopold Weiss、1687–1750) が活躍したのは、当時ヨーロッパ随一の人材が集うドレスデンのザクセン選帝侯宮廷楽団で、彼の並外れた能力はリュートという楽器を超えて広く認められていました。ウィーン宮廷が倍額の報酬を提供して彼を引き抜こうとしても彼はドレスデンに留まりました。そこまでしなくても彼には十分な給与と素晴らしい同僚があったからというのがその理由です。彼はバロック期最高峰のリュート作品を数多く残しました。 (蓮見 岳人)
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