北欧・北ドイツの響き
1月に3年ぶりに帰国し、演奏会を企画します。
今回は、バロックヴァイオリンの他、ヴィオラ・ダモーレ、ノルウェーの民族楽器ハーディングフェレを使ったプログラムです。https://fb.me/e/23HpFqJau
1月9日 (月・休日) 東京 北とぴあ・カナリアホール
18時30分開場 19時開演
前売り・お問合せ 辻 有里香
電話 : 03-6411-1997
1月11日 (水) 京都 カフェ・モンタージュ
20時開演
電話 : 075-744-1070
プログラムに寄せて 北欧・北ドイツの響き
バロック時代、音楽史上で重要とされる国々がいくつかあります。モ ノディ様式から調性システムを体系化しオペラという新しいジャンルを 開拓していったイタリア、そのイタリアの新しいシステムをいち早く取 り入れ、独自のスタイルをも発展させたドイツ、また絶対王政の社会構 造の中でイタリアとは違う音楽を踏襲していったフランス、そしてどの ヨーロッパ諸国よりもいち早く市民層での音楽活動が盛んだったイギリ ス、といったところでしょうか。 後期ルネサンス、16 世紀に使われるようになったイタリア生まれのヴ ァイオリンという楽器も、この時代にイタリアからヨーロッパ各地に広 まり、音楽史を先導する役割を果たします。 宮廷、教会、そして職業音楽家達の組合によって運営されていた都市 の音楽と並行して、庶民の間では民俗音楽が代々引き継がれて来ました。 民族音楽で好まれた楽器の一つにフィデルがあります。現在ではフィデ ルというとヴァイオリンのことを指すことが多いのですが、当時は楽器 そのものもイタリアの最新の楽器ヴァイオリンとは違い、地元の住民が 目の前にある材料で作ったものでした。 町や村の酒場で毎晩のように奏され歌われた音楽は、庶民の記憶によっ て伝えられ記譜されないのが通常です。このような日常生活の音楽を、 当時の「職業音楽家」たちは自分の作曲に好んで取り入れました。テレ マンやバッハといったドイツ語圏の中、北部で活躍していた音楽家も例 外ではなく、地元やポーランドの民俗音楽は彼らの作品の中に生きてい ます。 このプログラムでは、無伴奏ヴァイオリン、無伴奏フィデルのための 音楽、そしてレオポルド・モーツァルトが彼の著書「ヴァイオリン教則 本」(1756)で「夕べの音楽にぴったりな」と表現したヴィオラ・ダモー レ(愛のヴィオラ)の音楽を通して、バロック時代の社会全般における音 楽の在り方を迫ってみたいと思います。
ヴィオラ・ダモーレとハーディングフェレ
17 世紀半ばから 18 世紀終わりにかけて、ヴィオラ・ダモーレはその独特な響きで人々を魅了していました。本体はヴィオラ・ダ・ガンバと 同じ作りで、ヴィオラ・ダ・ガンバ族は楽器を脚の間に挟む、もしくは 立てる、という奏法をとるのに対し、ヴィオラ・ダモーレはヴァイオリ ンの構えで演奏されます。
17 世紀半ばにこの楽器が出現しますが、当初は金属弦を弓で擦って いました。17 世紀終わりにかけて、弓で奏される弦(当時のヴィオラ・ ダ・ガンバやヴァイオリンのようにガット弦を使用するようになってい きます) の下に金属弦を張り、それが弓で擦って発生する実音に共鳴し倍音豊かな独特の響きを生み出す構造へと変わっていきます。演奏する 曲の調性に合わせて調弦法を変えるテクニックは、バロック時代の特に南ドイツでヴァイオリン音楽において好まれたものですが、このスコル ダトゥーラというテクニックはヴィオラ・ダモーレにおいて普通に用いられました。民俗音楽ではいまだによく使われている方法です。ヴィオラ・ダモーレの調弦は18 世紀半ばから、現在のオーストリアやフランスといった地域でニ長調の調弦に固定されていき、これで全ての音楽に 対処するようになっていきます。 18 世紀前半のドレスデンは、その軍事力、また素晴らしいオーケス トラがあることで有名でした。ドレスデン宮廷で音楽監督を勤めていた ピゼンデルは、宮廷オーケストラのために多く写譜させ、自身も自ら書 き写してレパートリーを確保していました。その楽譜コレクションの中 に残っている 33 の無伴奏ヴィオラ・ダモーレの作品集には、当地、そ してポーランドの民俗音楽の影響が色濃く残されています。 共鳴弦システムが 17 世紀、18 世紀を通して民俗音楽の分野に取り入れられていったのがスカンディナヴィアです。ノルウェーのハーディングフェレ、スウェーデンのニッケルハルパに導入されました。 ノルウェー南西のフィドル、ハーディングフェレ(ハルディングフェ レ)はフィドルに共鳴弦が付けられたもので、現存する最古のものは1651年にハルダンゲル州ウレンスヴァンの保安官、オレ・ヨンセン・ ヤアスタ Ole Jonsen Jaastad (1621-1694) が製作したものです。それぞれの村落には必ず一人”演奏担当者”がいて、 毎日の生活の中で結婚式、 葬式、教会のミサや行事、村の行事に用いられました。演奏担当者 (スペルマン- 奏する人、主に弦楽器を弾く人を指した) は、村の社会の中 で尊敬される存在でした。無伴奏で用いられ、合奏での使用はなかったようです。 ハーディングフェレの音楽は師から弟子へと楽譜なしで伝承されてい ます。18 世紀後半において、スカンディナヴィアでも市民層が経済的地位を確立し、楽器の習得が一つのステイタスとなると、民俗音楽のメロ ディーもピアノや歌、ヴァイオリンなどで演奏できるよう編集され、出版物として多く出回るようになります。 また 19 世紀にヨーロッパ各地で興った民族運動において、自分達の 文化である民俗音楽を記録に残そうという機運が高まります。ハーディ ングフェレ地域の街ベルゲン出身のエドワード・グリーグ (1842-1907) は、ピアノ曲集作品 72 において地元の民俗音楽をピアノ用にアレンジしました。この曲集に、Giböens bruremarsj ギベエンの結婚式マーチ、Skuldalsbruri, gangar スクルダールスブルリ(スクルダールの花嫁)・ ガンガー の2曲が収録されています。ガンガーとは2/4拍子または6/8拍子のカップルダンスで、伝統的には結婚式用のものでしたが、今日ではあらゆる場面で好んで演奏されています。
イングランド、アイスランド、アイルラ ンド、北海諸島、そしてスカンディナヴィアには、古くからフィデルの文化が存在 しました。ノルウェーには普通のフィデル とハーダンガフェレの文化が併存します。 また多くのヨーロッパ諸国と同様、フィデルはプロテスタント・敬虔主義から見ると容認できない存在でした。特に、ノルウェーのフィデルには異教徒や悪魔にまつわる神話が伝承されていることが多く、その傾向は強かったようです。1800年代の初めから半ばにかけて、ハンス・ ニールセン・ハーゲを中心とする敬虔主義運動がノルウェーの農村地帯に広がり、世俗のものはことごとく弾圧されます。ハーディングフェレは「悪魔の楽器」と呼ばれ、酒や姦淫に関連した罪深い行為を引き起こすものとされました。それまでは村の名誉職であった演奏家たちは活動できなくなり、しばしば楽器を破壊するまでに追い込まれたのです。古い楽器があまり残っていないのはこういった歴史的背景によるものです。 1850 年頃ノルウェー西部は飢饉に見舞われ、アイルランドと同様、多くの農民がアメリカ中西部へ移住します。その結果、アメリカにハー ディングフェレの伝統がもたらされ、現在に至っています。
ハーディングフェレには多くの装飾が施され、多くの楽器にはペグボ ックスにライオンや竜の彫刻がなされています。常に2弦、時には3弦 を同時に奏するため駒は平らで、楽器本体は通常のヴァイオリンよりも 小ぶりです。演奏において独特の音程間隔が使われることが多く、自然 倍音で演奏される笛の音程から来ているものだという説があります。ま た各地方で特有のリズムの取り方があり、調弦法も 26 以上存在すると 言われています。
バロック時代のハーディングフェレは、今の楽器よりさらに小型で胴 はもっと分厚く、トランペットのような音色だったようです。18 世紀 にイタリアのヴァイオリンがスカンディナヴィアにも広まり、各街の職業音楽家組合と地元のフィドラーの間で、仕事のテリトリーを巡って諍いが絶えませんでした。その反面、組合の音楽家たちが修行先のイギリスやドイツなどで習得してきたヴァイオリンの影響を受け、ハーディン グフェレの構造もヴァイオリンに近くなっていきます。またヨーロッパ本土で盛んであったポルカやメヌエット、ワルツといったダンスが民俗音楽にも取り入れられて行きます。
ノルウェーとヨーロッパ諸国の繋がり
ノルウェーは古くからイングランド、スコットランド、アイルランド、 アイスランド、また北海諸島やハンザ都市と強いつながりがあります。 通商、政治、そして文化全般に及んで相互に影響し合いました。 8 世紀から 11 世紀にかけて、スカンディナヴィア全域から集まって徒党を組んだ「海を渡る人々」ヴァイキングが、海賊として全ヨーロッパ を荒らし回りました。南はイベリア半島、北はグリーンランド、そして北米に至るまでの広い地域を行動範囲とし、略奪行為を繰り返し、またその結果として各地に金属加工技術や手工業技術を広めます。 11 世紀に入りキリスト教がスカンディナヴィアにも広まり、13 世紀 にホーコン 4 世 (1217-63) がキリスト教国としてノルウェーを統治。イングランド、バルト諸国やハンザ都市との通商を通して国力が高まり、 経済的そして文化的繁栄をもたらします。しかし 1349 年のペスト流行で人口が半分以下にまで減り、国を維持できないほどにまで国力が低下、 その後 400 年以上に渡る外国支配となります。 1397 年のカルマール同盟により、ノルウェー、スウェーデン、デンマ ーク3国は一つの同盟国となりまが、1523 年にスウェーデンが脱退 し、1814 年のナポレオン戦争終結までデンマーク支配が続きます。その後スウェーデン統治下ながら自国の憲法を持つことが認められ、ヨー ロッパ全域に広まった民族運動と相まって国民意識が高まり、自国の文化の見直し・再発見の運動が盛んになります。この一環の流れの中で、 民俗音楽は自国のステイタスの一つとして見直され、引き継がれることとなりました。ハーディングフェレはそれを代表する楽器として国をあ げて助成されています。現在では伝統音楽、そして様々な他の音楽分野においても積極的に使用されています。
バロック時代のスウェーデン
上に述べたように、スウェーデンは1397 年のカルマール同盟により、 ノルウェーと同様デンマークの支配下に入りますが、1523 年にヴァー サ朝が成立し独立します。「北方の獅子」グスタフ 2 世アドルフ(1594- 1632) の時代に領土を広げ、バルト海を制します。このバルト海制海権はハンザ同盟から15 世紀にデンマークに移り、16 世紀半ばにスウェー デンが支配。18 世紀に入ると、大北方戦争(1700-1721)でスウェーデン 艦隊を破ったロシアへと移っていきます。 大北方戦争のあと王権が大幅に制限されたスウェーデンでは、1712 年から1772 年の「自由の時代」と呼ばれる半世紀が続き、王政から議会制へと移行、それに伴って公民権が拡大します。 この時期のスウェーデンでは、17 世紀終わりからのロンドンのよう に、力を得た市民たちが音楽を嗜み楽しむようになっていきます。宮廷の音楽監督であったヨハン(ユハン)・ヘルミク ・ルーマン(1694-1758)は、ロンドンでの修行時代、ヘンデルをはじめとする音楽家たちの自由・自営業としての活躍を体験します。1715 年ごろから王の許可を得てロンドンへ渡ったルーマンは、ヨハン・クリストフ・ペープシュ、アッテ ィリオ・アリオスティの元で勉強し、ヘンデルやジェミニアーニとも親交を深めます。自国に戻ると宮廷での仕事の他に一般市民にも音楽を提供、市民のための演奏会を開催し、スウェーデン語の歌詞での作品も多く残します。また宮廷での演奏のために当時の最先端をいく西欧諸国の音楽を集めていました。ロンドンでの師、アリオスティはヴィオラ・ ダモーレの名手としても有名で、アリオスティの「ヴィオラ・ダモーレ のためのソナタ(15 曲)」の唯一現存する原典は、ルーマンの手による写 譜としてストックホルムに保管されています。
ルーマンは若い頃にヘンデルから学んだ形式を元に、自国の音楽を作品に取り入れ、のちにイタリアで最新のタルティーニのヴァイオリン音楽に触れると、その優雅なロココ様式も組み込んでいきます。無伴奏ヴ ァイオリンのためのエッセイ(Assaggio) ロ短調は、その面白い例として注目すべき曲集です。ロココ的アリアの 1 楽章、当時ヨーロッパ全域で広まりスウェーデンでも自国の民族音楽に取り入れらていったポロネ ーズを取り入れた 2 楽章、ジーグ的な3 楽章、そして4 楽章には再びポ ロネーズのリズムが用いられます。 無伴奏ヴァイオリンのための序曲 BeRI 322 変ホ長調 は、ロンドンで オペラ興行を行っていたヘンデルのオペラ序曲の書法と、ドイツヴァイオリン楽派の重音奏法を合わせた作品となっています。 18 世紀にドイツでも流行ったポーランド風の音楽は、スウェーデンにも入って伝統音楽にも影響を与えています。ポーランド風という意味の「ポルスカ」、19 世紀初頭に流行ったワルツから独自に発展した「ヴァルス」、スコットランド風という意味の「ショッティス」、マー チ「マルシュ」といった音楽が現在も伝統音楽として楽しまれています。
無伴奏ヴァイオリンの音楽の伝統 – テレマン、バッハ
今回は、バロックヴァイオリンの他、ヴィオラ・ダモーレ、ノルウェーの民族楽器ハーディングフェレを使ったプログラムです。 ・ゼバスティアン・バッハ (1685-1750) の無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ・パルティータ 6 曲 (BWV 1001 – 1006)、ゲオルク・フィリップ・テレマン (1681-1761) の無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア 12 曲は、その興味深い例といえます。 当時ドイツ音楽界においてスター的な存在だったテレマンは、87 年の生涯の中で 4000 もの作品を残したと言われています。1715 年から 1740 年まで、楽譜出版業も営んでいました。音楽愛好家の市民を対象 として、音楽誌や教則本、楽譜を出版します。この 12 曲のファンタジ ア集は 1735年に出版の予告宣伝がなされていますが、1733 年には完成 していたものと思われます。前半 6 曲にはフーガの技法も用いた伝統的な書法が用いられ、後半 6 曲にはテレマン特有の甘美な歌唱的旋律、シンコペーションやロンバルディア風リズムを用いた、当時最新のギャラントな作風となっています。若い頃、プロムニッツ伯爵の招きによりポーランド・ジャルイで宮廷楽長として勤めていた時代に、ポーランドの民俗音楽に触れ魅了されたテレマンは、生涯にわたって自分の作品にその要素を取り入れるようになりました。 ヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナ タ・パルティータ 6 曲の清書譜には、1720 年という日付が入っています。この作品集において要求される多声部演奏の技術は、ビーバー、ヴ ェストホフ、ピゼンデルといったヴァイオリンの名手達のドイツ・ヴァ イオリン奏法にルーツがあります。また、18 世紀を通してヨーロッパ 中のヒットとなったコレッリの豊かな装飾を施したアダージョ、またバ ッハ自身が得意とした鍵盤楽器のためのフーガ技法も取り入れ、内容に富んだ作品集となっています。幼い頃、父アンブロシウスに手ほどきを受 オルガンやチェンバロといった鍵盤楽器の名手としてキャリアを積む傍ら、ヴァイオリンという楽器には生涯特 別の情熱を持ち続けたバッハは、この楽器の可能性を知り尽くしていました。彼の遺産リストには、当時一番と言われたヤコブ・シュタイナー 製のヴァイオリンも含まれています。 ソナタ 3 曲 (BWV1001、 1003、 1005) は元々一つのチクルスだったというのが、ドイツ人音楽学者ヘルガ・テーネ氏 (Helga Thoene) の説で、キリスト教における 3 大行事、すなわち、降誕祭 (クリスマス)、復 活祭 (イースター)、聖霊降臨祭 (ペンテコステ)、をテーマとした作品とされています。ソナタ 1 番にはキリスト生誕、2 番にはキリストの受難 / 復活、3 番には聖霊降臨祭に関するコラールがベースとして用いられているという分析です。
ソナタ 1 番ト短調では、バッハの作曲の意図を明確に読み取ることかできます。教会ソナタ形式に、イタリアのコレッリ派のヴァイオリン様式 (即興的装飾)と、ドイツ・オーストリアの対位法的な重音奏法を統合することに成功しているといえます。1 楽章の装飾豊かなアダージョは、 コレッリのヴァイオリンソナタ集作品 5 (1700)に着想を得ており、即興でなされる装飾が細かいところまで丁寧に書き出されています。上・下降音型のニュアンス、装飾音、重音奏法、不協和音を効果的に使った前奏曲のスタイルは、バッハ特有の和声による表現を情感豊かなものにし ています。イタリアの主題に基づくフーガを用いた 2 楽章では、ドイツの重音奏法を駆使したものとなっています。バッハは、オルガニストとしてアルビノーニ、コレッリ、レグレンツィのトリオソナタのフーガを チェンバロやオルガン用に編曲しており、イタリア風フーガ形式を熟知していました。3 楽章のシチリアーナもイタリア風といえます。シチリアーナという形式は、シチリア出身のアレッサンドロ・スカルラッティが地元の民俗音楽をオペラに導入し器楽曲に転用したもので、6/8 拍子 や 12/8 拍子で表記される牧歌的なアリアです。イタリアでは 1700 年頃、 ドイツではその10~15 年後に導入されました。ト短調ソナタのシチリアーナはドイツで最も古い例の一つであり、バッハ自身においても最初 の例です。バッハはこの後、協奏曲、ソナタ、受難曲、カンタータにこのタイプの楽章を40 以上用います。彼はこの最新のイタリア・アリア 形式に、ドイツの重音奏法を取り入れました。後にバッハはクリスマス オラトリオの第2部の冒頭シンフォニアで、シチリアーノ形式を使って います。4 楽章プレストはイタリアのヴァイオリン名手達、ヴィヴァル ディやヴェラチーニのスタイルを思い起こさせるフィナーレとなっています。舞踏様式に分割装飾を施した無伴奏ヴァイオリン作品は、彼自身の無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータや、ドレスデンの宮廷楽長 ・ヴァイオリンの名手ピゼンデルの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタにその例を見ることができます。 (阿部千春)
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