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ケルンからこんにちは

阿部千春です。ドイツから徒然草をお届けしています。

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テレマン 無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア集全12曲


解説 08.11.2019

 ご無沙汰しました。ここのところ演奏、オケの楽譜係、自分の研究と盛りだくさんです。コンチェルトケルンの第3回目ワーグナー企画コンサートも無事終わり、再来年のラインの黄金に向けて、これから色々な策を練っていこうと頭をひねっています。

 さて今週の金曜日に東京・早稲田スコットホールギャラリーというこじんまりとしたレンガ壁の空間でちょっとした演奏会を企画しています。テレマンの無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア集全12曲がプログラムです。この曲集、ヴァイオリンを習う人は教材として出会うことの多い、結構知られている小品集なのですが、実はなかなか粋な作品集なのです。

 私自身、こんな感じだろ、なんて適当に弾いていたのですが、今回調べてみてなんて面白い曲集なのかしらんと新鮮な驚きを感じています。それにまつわる色々なお話も面白くて、ついさっきまで当日用プログラムの解説をああでもないこうでもない ( これはいつものことですが ) と捏ねていました。古楽をやっていて面白いのはこういう瞬間ですね。今まで見てきたつもりの風景が突然違って見えてくる、そんな演奏会になればと思います。

 ということで、その捏ね回した解説をここに掲載します。当日配っても読んでくださるのは多分お家に帰ってからとなるでしょうし、もし事前にこのサイトを見ていただけるのでしたら当日さらに面白くなるかなと期待してます。

解説

−音楽家テレマンの肖像−

 ゲオルグ・フィリップ・テレマン( 1681〜1767 ) は18世紀前半のドイツにおける重要な作曲家の一人です。ドイツ・バロック音楽というとヨハン・ゼバスティアン・バッハ( 1685〜1750 )の名前が第一に挙げられますが、当時テレマンはヨーロッパ中に名を知られたスターでした。古めかしく分かりにくいと作曲家としての評価が低かったバッハに比べ、最新のスタイルをうまく取り入れ親しみやすいテレマンの音楽はもてはやされていました。19世紀に入りナショナリズムの機運が芸術の分野でも高まる中、バッハはドイツのシンボルとして神のように崇められ、一方テレマンは多作で内容に乏しく、教会音楽家であるのにオペラまで書いたと酷評されるようになります。

 テレマンは87歳で亡くなるまでに4000曲以上もの作品を残したと言われます。長生きだったテレマンは最後まで精力的に活動を続け、その間常に最先端の音楽を研究し自分の作品に取り込んでいました。のちにバッハやヘンデルと比べ軽薄だとされたテレマンの作品には実は新しい時代、古典派に向けての傾向を見ることができます。テレマンが没した1767年、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト( 1756〜1791 ) は11歳、神童としてヨーロッパデビューをすでに果たしていました。またヨゼフ・ハイドン( 1732〜1809 ) はその前年エステルハージ家の宮廷楽長となり、アイゼンシュタットで独自の作風を築いていきます。

 4歳で父親と死別したテレマンは子供の頃から音楽に興味を示し、独学で様々な楽器を習得します。12歳でオペラを書く程でしたが、母親は彼を”まともな”職につかせるためにツィラーフェルトの学校に送り込みます。彼の父親の学友がここで教師として働いていたためなのですが、このカスパー・カルヴェルという先生は大の音楽愛好家で少年の才能を即座に認めます。この時期にテレマンは通奏低音の技術を身につけ、師の代行としてある演奏会で指揮をし成功を納めます。

 その4年後ヒルデスハイムのギムナジウムに移り、イタリアの巨匠、アルカンジェロ・コレッリ( 1659〜1713 )、アゴスティノ・ステファッニ( 1654〜1728 )、アントニオ・カルダラ( 1670〜1736 ) らの音楽に出会います。またハノーファーやブラウンシュヴァイクの宮廷ではフランスの音楽が盛んでした。ジャン・バプティスト・リュリ( 1632〜1687 )の作品を体験します。すでにヴァイオリン、クラヴィーア、リコーダーを習得していた彼はこれらの宮廷の音楽家に触発され、この時期にさらにオーボエ、トラヴェルソ、シャルモー、ヴィオラ・ダ・ガンバ、コントラバス、バストロンボーンの奏法も身につけます。

 20歳になった彼は親族会議によって法律を学ぶべくライプツィヒの大学に送り込まれます。道中ハレに立ち寄り、この時すでに有名になっていたゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル( 1685〜1759 )に会い、生涯の友達となります。ライプツィヒでは勉強の傍ら、教会音楽の作曲・上演、翌年1702年には1693年に設立されたオペラ劇場の音楽監督、1704年には大学教会のオルガニストに任命されます。23歳にしてライプツィヒ市全体の音楽を受け持つようになった彼は、さらに学生40人からなるコレギウム・ムジクムを結成、市民に毎週最新の音楽を提供するようになります。後にライプツィヒに就任したバッハがこの半アマチュア団体を引き継ぎ、室内楽の名曲を残しました。テレマンの親族も流石にこの活躍には文句をつけることもできず、晴れて彼は職業音楽家としての道を進むことになりました。

 1705年にプロムニッツ伯爵の招きで現ポーランドのジャルイで宮廷楽長となります。伯爵のフランス好みに合わせて2年間に200ものフランス風管弦楽組曲を作曲したと言われます。この宮廷は1年の半分をポーランドのシュレージエン地方で過ごし、その際テレマンはポーランドの民族音楽に感動、これにのめり込みます。生涯に渡っての彼のポーランド音楽贔屓は様々な作品に現れることとなります。この頃ドイツではポーランドの民族音楽は知られてはいましたが、テレマンはその生き生きとしたメロディーやリズムの魅力を積極的に自分の作品に取り入れていきます。

 1708年にアイゼナハの宮廷に招かれ宮廷秘書として宮廷礼拝堂の楽団を結成します。そして1709年結婚しますが、1年後娘の誕生の際にこの妻を失くしました。この時期、近くのヴァイマールの宮廷オルガニストを務めていたヨハン・ゼバスティアン・バッハと知り合い、生涯の友、お互いの良き理解者となりました。テレマンの2台のヴァイオリンのための協奏曲ト長調( TWV 52: G2 ) には部分的にバッハの手によって書かれた写譜が残っていますし、テレマンのヴァイオリン協奏曲ト短調( TWV 51:g1 ) をバッハはチェンバロ用に編曲しています( BWV 985 )。後にテレマンはバッハの息子、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ( 1714〜1788 ) の名付け親となります。

 1712年、31歳で自由都市フランクフルト・アム・マインの音楽監督、そして2つの教会の楽長として就任します。1714年、16歳のマリア・カタリーナ・テクストアと2度目の結婚、しかしこの結婚生活はうまくいかなかったようです。彼女は後にハンブルクで浮気騒動を起こし、テレマンが彼女をフランクフルトの親戚へ送り返した後も、彼女は賭け事で多額の借金を作ります。社会的に名士として認められていたテレマンは、当時の慣習に従って離婚はしませんでした。その借金の返済にかなり苦労したようですが、ハンブルクの商人たちが援助して、破産せずにすみました。

 フランクフルトでは1715年に出版業を始めます。またコレギウム・ムジクムを主催しますが、ライプツィヒの時よりもその規模はずっと小さく、23人から成っていました。大きな演奏会の際は近くのダルムシュタット宮廷から音楽家を補う事も度々でした。テレマンがフランクフルトにいる間にこのコレギウム・ムジクムのレベルは上がり、公開演奏会に出しても恥ずかしくないほどになります。彼はそのような公開演奏会の際にリブレットを販売し収入を得たりとなかなか商売上手な面も見せています。またアイゼナハ宮廷の不在楽長という肩書きで毎年新作を宮廷に送っていました。

 1721年からテレマンはハンブルク市の音楽監督、ヨハネウム学校の音楽監督として就任します。フランクフルトと同様、ハンブルクも自由都市の一つでした。当時ドイツで第2の都市だったハンブルクは音楽活動も盛んでした。フランクフルトにはオペラ劇場がなく公開音楽会をするにしても会場が乏しいのが実態で、音楽家の数も少なく、足りない時はダルムシュタット宮廷から来てもらっていました。一方ハンブルクは17世紀から著名な音楽家を招く伝統があり、1660年には当時聖ヤコブ教会のオルガニストとして活躍していたマティアス・ヴェックマン( 1616?〜1674 ) がコレギウム・ムジクムを結成します。ヴェックマンの死後この毎週木曜の音楽の集いは消滅しますが、テレマンはこれを復活させ様々な室内楽曲を作曲しました。著名な楽器制作者も多数おり、またハンブルク市専属の、職業組合に属していない音楽家たち(普段は職人として仕事をしており、その副業として音楽を営んでいた)も音楽が必要な祝祭やセレモニーなどで活躍していました。テレマンにとってはフランクフルトよりも魅了的な職場だったと言えます。とは言え就任した翌年、ライプツィヒ市から音楽監督としての打診があり、ハンブルク市との駆け引きの結果、彼は自分の給料を値上げさせることに成功しています。テレマンに断られたライプツィヒ市当局は当時やはり売れっ子だったダルムシュタットのグラウプナーに打診、これも断られ、最終的にヨハン・ゼバスティアン・バッハを音楽監督にします。

 ハンブルクにはドイツで1678年初めて設立された公開オペラ劇場があります。この劇場では1704年テレマンと同い年のヨハン・マッテゾン( 1681〜1764 )が自作のオペラを上演した際、そこでヴァイオリンを弾いていた友人のヘンデルと喧嘩になり決闘、危うくヘンデルは刺し殺されそうになったという逸話が残っています。テレマンがハンブルクに就任した頃、マッテゾンは大聖堂の音楽監督をしており、また音楽批評家として音楽雑誌に毎週のように投稿していました。テレマンはマッテゾンとの接触に慎重だったようですが、そのうち認め合う仲になったようです。外交官としての本職の傍ら、次第に聴力を失っていったマッテゾンは理論家、批評家として活動し続けました。

 やがてハンブルク市全体の音楽活動を統括するようになったテレマンは、1737年9月から8ヶ月間パリに滞在します。流行の最先端との自負の強いパリの聴衆から見るとドイツ音楽はつまらないものでした。しかしテレマンの音楽は別格で扱われ、すでに彼の名前はパリでも有名でした。フランス人以上にフランス音楽ができると歓迎されたようです。

 テレマンは熱心な園芸ファンでもありました。当時ハンブルクの市民たちの間では郊外に庭を持ち園芸に勤しむのが流行っており、テレマンも裕福な市民層の一人として珍しい植物をあちこちから集めていたようです。1742年に書かれたテレマンの植物のリストには70ほどの植物が挙げられています。彼はあちこちの友達に頼んで取り寄せていたようで、ドレスデンにいるヴァイオリニストのピゼンデルから珍しいサボテンやアロエを送ってもらったり、ロンドンにいるヘンデル、ベルリンのカール・フィリップ・エマヌエル・バッハやカール・ハインリヒ・グラウン( 1704〜1759 ) などにも注文を頼んだりしていました。現在マグデブルクにその庭を再現したものがあり、彼が集めていた植物が植えられています。

−ファンタジアとは−

 幻想曲とも訳されるファンタジアという様式は器楽曲の様式を表す言葉として16世紀に現れます。ラテン語/ギリシア語で空想、幻想を意味するphantasiaが語源です。16世紀においては「リチェルカーレ」と同様、舞曲・変奏曲という固定枠にはまらない、テーマを模倣させながら自由に発展させる様式を指していました。枠がないので表現がより自由になり、言わば楽譜に記された即興とも言えます。ドイツではオルガン音楽において、スペイン、イタリア、フランスではリュート音楽において好んで使われました。イギリスではfancyという名で、声楽のモテット(ミサ曲以外の対位法による宗教曲)の作曲技術を器楽に転用した様式として使われます。ヴァージナル曲として、また後のヘンリー・パーセル( 1659〜1695 ) は合奏曲として作品を残しています。1610年頃にイタリアのフレスコバルディ、オランダのスウェーリンクらによってこの様式は頂点を迎えます。

 バロック時代後半に入ると賛美歌の旋律によるコラールファンタジアが好んで作られました。前奏曲、またトッカータ(即興的な試し弾きのような楽曲)としての性格が強く、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは「インヴェンションとシンフォニア集」を当初ファンタジアと名付けていました。彼の次男、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは「鍵盤楽器奏者はファンタジア奏法を身につけるべきである」「音楽家の自由な精神から生まれる、予期できない即興的な表現が次々と現れるこの様式・奏法は、通常の作曲技法より次元が上のもの」と述べています。19世紀には「作曲家の想像力に任せて、調整・様式・形式・テンポ・構成に関わりなく、即興的に展開される形式」「その時の思いつき、感情によって、メロデイーがあるかと思えば突然分散和音が続いたりと何がくるか予期できないもの」という記述が現れます( 1802年、ハインリヒ・クリストフ・コッホ「音楽辞典」)。記譜されているファンタジアの奏法には、あたかもその時に思いついたような、型に囚われないスタイルが要求されます。

 このような自由なスタイルは時代を超えて好まれ、モーツァルト、シューベルト、シューマンなどにも作品が残っています。ベートーヴェンの作品27の2曲のピアノソナタには”Sonata quasi una Fantasia“ ( 幻想風ソナタ)という表示がなされています。

 テレマンは、クラヴサンのためのファンタジア集( TWV 33 : 1 〜36 ) の他、無伴奏の楽器のためのファンタジア集をフルート( TWV 40 : 2 〜 13 )、ヴァイオリン( TWV 40 : 14 〜25 )、ヴィオラ・ダ・ガンバ のために書いています。1713年のマッテゾンの著作には「この様式は主に鍵盤楽器に用いられるが、無伴奏の楽器にも使用される。形式にとらわれず即興のように奏される」とあります。

 無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア集は1735年に出版の予告宣伝がなされており、1733年頃には完成していたと推察されます。この予告には、前半6曲はフーガの技法、後半6曲はギャラントの様式に乗っ取って作曲されているとあります。1番から6番には各曲に対位法による技法が使われており伝統的な書法を踏まえての作曲となっています。これに対して7番から12番にはテレマンが得意とした甘美な歌唱旋律( Dolche、Piacevolmenteなどの表示にそれが見られます)、シンコペーションやロンバルディア風付点音符が現れ、当時流行のギャラント様式を使いこなした作品となっています。テレマンはファンタジア集において曲想や曲の性格、構成、また調性、リズム、モティーフ、音型などの素材の用い方、組み合わせ方を頻繁に変化させ使い回し、万華鏡のような世界を繰り広げています。

 曲集は3〜4楽章形式で書かれていますが、12曲中4曲(2番、8番、9番、12番)には1730年代において新しいスタイルであった3楽章形式、すなわち緩−急−急という構成が取られ、そのうち3曲は後半に含まれています。

 テレマンは若い頃から貪欲に様々な様式を吸収して自分の作品に取り組みました。イタリアの音楽、フランスの音楽はもちろんのこと、当地ですっかり虜になったポーランドの民族音楽も積極的に使っています。例えばこのファンタジア集にも、特に後半の6曲に、民族音楽でヴァイオリンなどと一緒に使われるハーディガーディの音型を模倣したり民族舞曲の要素を使ったりしました。テレマンの作曲の特徴であるイタリア、フランス、ポーランドの民族音楽を組み合わせ使いこなした「混合様式」の特徴がここによく現れています。

−原典について−

 この曲集の唯一現存している原典はベルリン国立図書館に残されている写譜です。商売上手だったテレマンは、1715年から1740年まで楽譜出版も営み、初心者向けの教則本、裕福なアマチュア音楽家向けの予約販売、職業音楽家を対象とした室内楽やカンタータなどを自身で出版します。また隔週で音楽雑誌「忠実な楽長 」( Der getreue Musikmeister )を刊行、毎号に新作を掲載し、続きを次号に載せるというやり方で購読者を確保していました。また新刊の宣伝を掲載したりしていますが、1735年には無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア集の新刊予告も見ることができます。

 残念ながらこの曲集の初版は表紙のみ現存しており(ブリュッセル王立図書館所蔵の”無伴奏フルートのための12のファンタジア集”に添付されている)、ベルリンにある写譜はテレマンの初版を筆写したと思われます。

 テレマンには8人の息子がいましたが、長男アンドレアス( 1715〜1755 ) は早くに亡くなります。その息子ゲオルグ・ミヒャエル( 1748〜1831 )は7歳の時ハンブルクの祖父に引き取られます。祖父の手伝いをしながら自分も教会合唱の伴奏をなどをこなし、祖父が死んだ時19歳だったミヒャエルは、祖父の後任、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハが就任するまで祖父の代理として活動します。1773年にラトビアの首都リガに音楽監督として赴任、1831年に没するまで大聖堂付属学校においても教師として働きました。早くに忘れられていった祖父の音楽を、孫はリガの街で自作と共に演奏し続けます。

 ゲオルグ・ミヒャエルの弟子にゲオルグ・ペルヒャウ( 1773〜1836 )という人物がいました。ペルヒャウは後にハンブルクで歌手、また音楽家のエージェントとして活動、ハンブルクの名家の娘と結婚してからは楽譜を蒐集し始めます。1813年にベルリンに移り1826年までジングアカデミー でテナー歌手として参加しています。これは1791年にカール・フリードリヒ・クリスティアン・ファッシュ( 1736〜1800、バロック時代の作曲家ヨハン・フリードリヒ・ファッシュの息子)によって設立された合唱協会で、元は愛好家団体でしたが公的な組織へと発展しました。 ファッシュの弟子で後任のカール・フリードリヒ・ツェルター( 1756〜1832 )が指揮者になり1807年には付属の管弦楽団を設立します。そのツェルターの脇役としてペルヒャウはジングアカデミーの図書館の仕事に携わるようになります。自身の師、ゲオルグ・ミヒャエル・テレマンの遺品やカール・フィリップ・エマヌエル/フリーデマン・バッハ両兄弟の遺品(ヨハン・ゼバスティアン・バッハの楽譜も多く含まれる)を買い取り集めていました。ペルヒャウ亡き後、そのコレクションは買い上げられ、ベルリン王立図書館の所有となります。その中に、ペルヒャウが所持していたこの”無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア集”が含まれていました。

 ペルヒャウはベルリンに移住した際ヨハン・ゼバスティアン・バッハのマタイ受難曲の写譜を持参していました。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの遺品に入っていたものです。こうしてマタイ受難曲はベルリンにやってきて、1829年、当時20歳だったフェリックス・メンデルスゾーンによる、マタイ受難曲再演へと繋がっていきます。19世紀ドイツにおけるバッハ復興運動のきっかけの一つとなったわけです。

 ペルヒャウはツェルターが亡くなった後もヨハン・ゼバスティアン・バッハの楽譜を集め続け、そのコレクションは1850年(旧)バッハ協会が創立された際、全集出版の元となりました。

 このジングアカデミーの所有していた楽譜コレクション( 17世紀以降の自筆譜、写譜、初版など)は第2次世界大戦中1943年にベルリンから間一髪で疎開され、戦後行方がわからなくなっていました。半世紀たって1999年にキエフで発見され、2001年にドイツに返還され話題になりました。現在ベルリン国立図書館に保存されています。

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