ヨーロッパ巡りの旅 in 東京&盛岡
すっかりご無沙汰しています。
さて12月1日に東京・大塚のラリールという素敵なホールでリュートとのコンサートを開催します。バロック初期からタルティーニまで、バロックと言っても自分で弾いてみてもこんなにスタイルが違うのに新鮮な驚き。
その後、12月4日は盛岡です。明治末期の建物での演奏です。
気軽に楽しんでいただけるよう、説明を入れながらのコンサートです。
当日用のプログラム解説はこちらです。
今日のプログラムは1600年頃に現れた新しい形式から、後にハイドン・モーツァルトといった古典派の音楽へと繋がっていく18世紀半ばまでを順に追う内容です。
1517年のルターの「95箇条の論題」がきっかけで起こった宗教改革でローマ・キリスト教会の権力が根本から揺らぎ、中世からの価値観は大きな変化を迎えます。度重なる戦争やペストの流行は17世紀のヨーロッパ人口を3分の1にまで減らしました。不安な時代を生き抜いた人々の、心の声を追って見たいと思います。
中世・ルネサンスを通して音楽は七自由学芸の一つでした。数学系の四科(算術、幾何、天文、音楽)と言語系の三科(文法、修辞、論理)があり、背後にある法則を理解することで神の造った世界の調和に近づけるものとして、音楽は重要でした。また巷では音楽は実践のもの、職人の仕事で、教会、宮廷またダンスの伴奏として、日常生活の中で必要に応じて供給されるものだったのです。
現代の芸術観は19世紀音楽学において発生したもので、バロック、ルネサンスといった言葉が文化史上で用いられるようになりました。ルネサンスはフランス語のrenaissanceという言葉で「再び誕生する」という意、バロックはフランス語の形容詞baroqueから来ていて、「いびつな」とか「悪趣味な」(バロック時代の劇的な動きの表現や強烈なコントラストをその前の時代と比較して)という意味です。ドイツでは19世紀、市民階級が台頭し、文学・音楽は教養のシンボルとなります。ナポレオン侵攻後のナショナリズムと共に古い音楽が脚光をあび、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは天才として国民的英雄となりました。音楽は使い捨てだったのが、古い音楽への興味とともに蘇り、20世紀の古楽運動へと繋がっていくわけです。
14〜15世紀の文化史上ルネサンスと言われている時代は、古典復興を通しての世界・人間の発見の時代と言えます。美術ではイタリアのミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチといった巨匠が活躍、またアカデミアと呼ばれる知識人の集まりではギリシア・ローマ時代の古典研究がなされ、古典劇に音楽をつけることもありました。この中で多声音楽とは違う、言葉の抑揚を音楽に写し内容を表現する音楽の形が1600年頃に現れます。モノディと言われるこの新しい形式は、独唱に数字付き低音がつく形を取り、言葉の内容に合う劇的な表現が可能になりました。ここにオペラというジャンルが生まれます。
出版業、楽譜製作が盛んであったイタリアはこの突然の変化の源となります。ルネサンス時代に高度に発達した対位法では、声部の模倣や不協和音の使用などに制限があり、歌詞の内容を効果的に表現する方法が探られていました。イタリアのマドリガーレ作曲者達はこうしてモノディー様式という新しい方法を用い、オペラを確立します。ヴェネティアのサン・マルコ寺院の楽長だったクラウディオ・モンテヴェルディ(1567〜1643)はこの新しい方法で多くのオペラを作曲しました。
この新しいスタイルは貿易産業の重要商品だった印刷譜を通してヨーロッパ中に広まります。
ルネサンス時代の世俗多声楽曲、マドリガーレにおいては数人の歌手または器楽奏者が必要ですが、欠けている声部を鍵盤楽器やリュートなどで補う習慣がありました。これはバロック時代の通奏低音という数字付きバスの演奏習慣へと繋がっていきます。マドリガーレの一番上の声部を旋律楽器で担当し、残りの声部を鍵盤楽器やリュートで演奏するこの形は、1600年前後の器楽曲の形の一つでした。上声には分割装飾がなされるようになり(ディミニューション)、多くの教則本が出版されます。ミラノ出身のフランチェスコ・ロニョーニ( c 1570〜1626 ) が残した器楽・声楽用の教本「種々のパッセージの森」Selva de varii passagi (1620 )には当時有名だったマドリガーレに装飾を施したものが収録されており、当時の演奏習慣の例としてよく取り上げられます。
17世紀に確立・体系化された通奏低音奏法はバロック時代のみならず、特に教会音楽において19世紀まで使用されます。初期モノディは対位法を犠牲にしたものでしたが、17世紀を通して体系化された調整システムによる対位法は、コレルリの後期ソナタに見られるような調性によるフーガ的技法を可能にしました。
モノディ様式の出現と同じ頃、器楽曲は独立したジャンルとして認められるようになりました。この時代の器楽曲にはカンツォーナ、シンフォニア、カプリッチョ、コンチェルトといった題が付いており、幾つかの違う性格の部分からなる単一楽章形式をとります。
マントヴァ出身のカルロ・ファリーナ( c 1600〜1639 ) は1625年、ハインリヒ・シュッツ 率いるドイツ・ドレスデンの宮廷楽団に迎えられます。1628年までは当地に滞在したようで、その間5冊の作品集を出版しています。その後ドイツ・イタリアの宮廷を転々とし、1639年にウィーンでペストに罹患し没します。出身のマントヴァ・ゴンザーガ家宮廷は小さいながら最新をいく音楽都市の一つで、モンテヴェルディは1601年から1612年まで宮廷楽長を務めていました。ファリーナはイタリアの伝統にドイツの様式を取り入れます。重音奏法や音域の拡張、跳躍や素早いパッセージ、また弦楽編成による作品カプリッチォ・ストラヴァガンテCapriccio Stravagante ( 1628 ) においては動物の鳴き声の模倣を用いました。この時代の標題音楽の先駆的作品です。
カンツォーナは模倣対位法を用いた器楽曲で、17世紀を通して好まれた形式です。
器楽形式は17世紀に入ってから一つのジャンルとして大きな発展をしますが、ルネサンス時代から舞曲はチェンバロやリュートで器楽曲として演奏されていました。フランスでは17世紀前半、リュート音楽が非常に好まれ、エール・ド・クールという(旧来の調弦の)リュート伴奏による世俗歌曲が多く作曲されます。その一方で、舞曲をまとめる組曲という器楽曲形式を選んだ奏者たちは独特の表現力を求めてさまざまな変調弦を試みるなかで、フランスとドイツで標準となっていく開放弦がニ短調の調弦にたどり着きます。ニコラ・ブヴィエによる組曲は1638年にパリのバラール社から出版された様々な調弦によるリュート曲集のなかで初めて現れる画期的な作品となりました。この曲集に現れるリュート奏者たちの実験の積み重ねの上に、ゴティエ一族などに代表される以後のフランスバロックリュート音楽の黄金期が築かれます。
17世紀半ばのフランスは太陽王ルイ14世の絶対王権の治世でした。ダンサーとして自ら宮廷バレで主役として踊ったルイ14世の元、イタリア出身のジャン・バプティスト・リュリ(1632〜1687)は宮廷楽長として圧倒的な影響力を持ちます。この時代のフランスでは独自の音楽文化が花咲き、リュリを先頭として宮廷バレ、喜劇作家ジャン・バプティスト・モリエールの台本によるコメディ・バレ、そして1670年代からは叙情悲劇( tragédie lyrique )が発展します。フランス風序曲はその後古典派以降のオペラの序曲へ引き継がれます。この叙情悲劇は他国で流行したイタリア風のレチタティーヴォやアリアを導入せず、フランス語の発音に合わせ改変したレシ( récit ) と宮廷バレからの舞曲を組み合わせたものです。
リュリのもとで研鑽を積んだジャン−フェリ・ルベル( 1666〜1747)はパリで活躍したヴァイオリニストです。1705年から「国王の24人のヴァイオリン合奏団」Les vingt-quatre violons du Roiという先鋭のオーケストラに参加、作品も多く残しています。バレー音楽「四大元素」Les Élémentsは斬新な和声の使用で有名ですが、ソナタ作曲家としても活躍しました。フランソワ・クープラン( 1668〜1733)はコレルリ様式の擁護者でイタリア・フランス趣味を融合させた作品を書き、同世代の音楽家達もこの新しい様式に取り組みます。
1712年のソナタ集は17世紀の多主題・多部分的単一楽章の形をとっていますが、各部分の性格がはっきりとして多楽章ソナタ形式への橋渡し的な作品です。
17世紀の標題音楽の例としてハインリヒ・イグナツ・フランツ・フォン・ビーバー( 1644〜1704)
のソナタ・レプレゼンタティーヴァ(描写的なソナタ)が挙げられます。ビーバーは17世紀におけるヴァイオリン界の巨匠でその超絶技巧で有名でした。モラヴィアのクロメリッツ宮廷に仕えた後、無断でザルツブルクに移り、宮廷・教会で活躍します。数多くの教会音楽を残しており、また器楽、特にヴァイオリン音楽は音楽史上重要で、17世紀のドイツ・ヴァイオリン流派のスタイルの代表です。
1650年にローマで出版されたアタナシウス・キルヒャー著の「普遍音楽論」Musurgia universalisは1662年にドイツでも出版され、最初のアフェクテンレーレAffektenlehre ( 旋法や調、音型、リズムといった素材と情感を関連付けた理論)としてもてはやされました。このソナタはこの理論書を参考に作曲されたものと見られます。
もともと器楽曲という意味で使われていたソナタという語は次第に特定の器楽形式を表すようになります。17世紀後半、単楽章から複楽章へ変化し、教会ソナタ、室内ソナタという2つの違う形態が現れました。緩ー急ー緩ー急という構成を取る教会ソナタに対し、室内ソナタはフランスの組曲からの影響を受け前奏の後に舞踏形式が続くと定義されます。しかし、演奏された場所や状況により区別は曖昧で、教会ソナタに舞曲が入っていたり、反対に室内ソナタに舞曲が含まれないこともあります。楽章の数もこの時代は様々です。
キリスト教会の中心、ローマはヨーロッパ随一の芸術の都でした。教会や数ある宗教団体、教会貴族、世俗貴族、そして他の国からの追放王族(スウェーデン女王クリスティーナ、ポーランド女王マリア・カジミエシュ)がパトロンとして聖と俗の音楽活動を活発にします。30年戦争( 1618〜1648 )、ペストの流行に影響を受けず、勢力を維持していたヴァチカンは、その絶対権力で持って個人の音楽生活もを支配していました。”背徳と道徳的混乱の温床”として、オペラ禁止令が度々出されます。
アルカンジェロ・コレッリ( 1653〜1713 ) は1675年ボローニャからローマへやってきます。オペラ禁止令の中、まず教会音楽に参加。 スウェーデン女王クリスティーナ、パンフィーリ枢機卿、オットボーニ枢機卿の元を中心に活躍します。教師としても有名で、ヨーロッパ中から弟子が集まってきました。その中にはジェミニアーニ、カストルッチ、ガスパリーニなど18世紀前半の有名なヴァイオリニスト達もいました。弟子の一人ソミスはその後ピエモンテ派を確立、その弟子のヴィオッティは19世紀のパリ・フランコ派の創始者として現代にまでその系列は繋がっています。
コレッリの出版物は6つの曲集のみですが、特に作品5の12のヴァイオリンソナタ集はイタリア、パリ、アムステルダム、ロンドンで急速に発展した出版産業を通してヨーロッパ中に広まり、大ヒットしました。18世紀を通してベストセラーになった作品5は、器楽特有の音楽語法(頻繁な跳躍や細かい音価の走句、分散和音などの速いパッセージ、重音奏法など)を用いたものです。また声楽的なパッセージにおいて、アダージォなどの緩徐楽章では演奏者による装飾が求められました。18世紀の他の音楽家による装飾やアレンジが数多く残されています。
ゲオルグ・フィリップ・テレマン( 1681〜1767 )は18世紀前半のドイツの超売れっ子でした。現在ドイツ・バロックといえばバッハの名がまず思い浮かびますが、当時はテレマンが圧倒的な名声を得ていたのです。ヨハン・セバスティアン・バッハと交流があり、次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなりました。
18世紀前半のドイツではフランス、イタリア両様式が流入し、元々あったドイツの様式とも融合します。テレマンの作風はその典型ですが、ポーランドの民族音楽、特に舞曲からも影響を受けています。同世代のヨハン・マッテゾンは1713年に「ファンタジアPhantasia、Fantasiaとは主に鍵盤楽器による無伴奏の独奏曲である」と位置付けています。テレマンは鍵盤以外の楽器にもファンタジアを作曲しました。チェンバロ、ヴァイオリンの他、トラヴェルソ、ヴィオラ・ダ・ガンバにファンタジアとしての作品が残っています。形式にとらわれない、自由で即興的なスタイルで、この12曲のヴァイオリンのためのファンタジアには民俗音楽的な要素も多く見られます。
後期バロックのイタリアにおいては、すでに18世紀前半から古典派のスタイルが見られます。楽曲の均斉と合理的な展開が定着し、ソナタ形式が発展しました。
ジュゼッペ・タルティーニ( 1692〜1770 )はパドヴァ派の創始者として有名で、ヨーロッパ中から数多くの弟子が集まってきました。コレッリ系列のピエモンテ派と共に18世紀イタリア・ヴァイオリン界の重要な流派です。
パドヴァ大学で法律を学び、傍らフェンシングの名手でもあった彼は、父が没した後18歳で2つ年上の女性と結婚します。その際、書類を偽造したとの罪で身を追われ、アッシジの聖フランシスコ修道院に隠れることとなりました。ヴァイオリン演奏に専念するきっかけとなり、その後ヴェネチアで聞いたヴェラチーニの演奏に圧倒されたタルティーニは、アンコーナの地にこもり精進したと言われています。その後、ヨーロッパで最高クラスのオーケストラを有していたパドヴァの聖アントニオ聖堂を活動の中心として、ヴァイオリン教育を行いました。ヴァイオリン協奏曲は前古典派スタイルの典型といえます。理論家として、差音についての研究は特に有名です。
彼の作品の中でもっとも知られているのが「悪魔のトリル」です。1740年代に書かれたとされており、18世紀半ばにはヨーロッパ各地に伝わっていたらしく、1756年のレオポルド・モーツァルトのヴァイオリン教則本にトリルの例として引用されています。タルティーニが死の数年前に受けたインタビュー( Jerome Lalande " Voyage d´un Français en Italie“ 1769 )として伝わっている逸話から「悪魔のトリル」という名がつきました 。タルティーニが悪魔がベッドの足元に現れた夢を見、そこで聞いた悪魔のヴァイオリンの素晴らしさを書きとめようとしたのがこの作品だそうです。
現在でもヴァイオリニストのレパートリーとしてよく演奏されるソナタで、19世紀にはオーケストラ付きの編曲もなされています。
(阿部千春、 蓮見岳人)